知覧を訪れた。7月25日暑い夏の日だった
知覧は昭和20年8月陸軍最後の特攻基地だ。およそ1000名の若き特攻隊員が此の基地から飛び立ち尊い命を失った。思い出の土地だ。
此の飛行場跡に今特攻平和会館、平和観音堂が建っている。
平和会館を訪れた。閉館間際だった。入観料を払って入る。右手にゼロ戦が鎮座まします。壁には特攻隊員の写真が一面に張られその下のガラスのケースに隊員の遺書あるいは父母や家族に宛てた手紙絶筆が飾ってある。なくなった隊員たちの年齢はほとんどが18歳から30歳の若き青年である。
「母上様
お達者でお暮らしの御事と存じあげます。
28年間は夢の様でした。此の28年間の母上様のご苦心、ご辛抱、肝に銘じております。さ れば今日の日も勇んで征きます。・・・・
綾子のことに関しては母上様今度とも一層ご面倒を見てやってください。あれも正式なる式も 挙げ得ず、常に二人で一度でよいから帰郷したいと申していましたがそれは出来ませんでし た。それゆえ隣近所の方々とはまだ親しくいたしておらず突然一人ボッチで随分苦労すると 思います。女は女、綾子のことは母上様くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
昭和20年3月1日
御母上様 大槻 治男26歳(岐阜県)」
言いたい事も言えず唯妻のことのみ頼む思いが切ない。
もう一つあげよう。
「人生の総決算、何も謂うこと無し」
伍井 大尉」32歳
毛筆で墨痕鮮やかである。
19歳の少尉の手紙は痛々しい
「父上様母上様長い間待ちに待った日が愈々参りました。正巳は此の度皇国の為立派に死 ぬ機会を得ました。敵米英を撃滅し皇国の安泰を護る為に正巳は喜んで死んでいきます。 ・・・・生まれて20年御両親様の慈愛深き御養育を受け何のご恩返しも出来ず親不孝をお 詫びいたします。併し皇国の為に死ぬことこそ軍人の本分です。・・・あきらめてください。 山元正巳陸軍少尉19歳
戦死日は昭和20年4月3日。
ガラスケースにはこうした遺書絶筆が数限りなく納められている。
皆一応にお国の為に命をささげることを誇りにしている。純粋である。本当に命を失うことに疑問を待たなかったのだろうか。教育とは恐ろしいものだと今にして思う。
うそ偽りのない心情だと思うがそれだけに之を読むのはつらい。もう一つ強烈に印象に残った手紙があった。
「お母さん、お母さんとうとう最後までこう呼べなかった不孝をお許しください。3歳で実母に分かれて以来お母さんに育てていただいたご恩は忘れません。今こそお母さんと呼ばせてください」
継母に対する絶叫である。思いが伝わってくる。本音が見えた感じである。一体此の戦争は何だったろうか。若い青年の命をかくも無残に奪い取った戦争とは。しかも敗色濃厚となったあの時に。何ともいえない。旧飛行場跡に復元された三角兵舎があった。ここから隊員は旅たち帰らぬ人となった。夕陽が屋根を照らしていた。(2005年7月27日記す)田中信義
参考引用;「魂魄の記録 旧陸軍特別攻撃隊知覧基地」2005・3